孤雲崔致遠先生肖像
 崔致遠(Choe Chi On・チェ チ オン・857年〜?)は菅原道真(845〜903年)と同時代に博多湾の向こうの新羅国に生きた文人官僚である。
 道真は漢学者の家系に生まれ出世するが、讒言にあって大宰府に左遷され病死する。致遠は新羅国の都で新興の氏族の家系に生まれる。12才の年、「10年の内に科挙に及第しなければ、私の児と思うな。私もわが児とは言わない。行け、怠けず努めよ」との父の戒めを胸に唐の長安に学び、6年後、見事に科挙に合格する。
 はじめ洛陽に役人として勤めるが、879年からは淮南節度使(わいなんせつどし・江蘇省の揚州を拠点とした地方軍政府の長官)の高駢(こうへん)に書記として迎えられ、黄巣の乱時には「檄黄巣書」を著して天下を感動させている。


 崔致遠は885年に新羅国に帰り、文筆をもって政府に仕え、翌年正月には在唐中の作品を『桂苑筆耕集』20巻に編纂する。致遠は文章と能筆で大いに評価されるが、やがて旧百済の地に郡の太守として赴任し、民情を背景として時務策を時の王に献じ、遣唐使にも任ぜられるが、社会不安のために再度の入唐は果たされず、官途を退き海印寺に隠棲する。
 この致遠の経歴は道真のそれと重なる。入唐の有無の差はあるが、ともに新興の文人官僚としては中央に容れられず、失意のなかで生を終える。崔致遠の人と作品研究は、唐文化受容の日韓比較研究のほか、道真の作品研究にも及ぶ。この研究プロジェクトの課題もここにある。

『桂苑筆耕集』の刊行と伝来
 886年正月、崔致遠は『桂苑筆耕集』20巻を編んで、唐の僖宗に献ずる。この文集は中国の歴史書の『新唐書』芸文志に記録されるが、やがて中国では逸書となる。
 一方、韓国では高麗時代(918〜1392)から朝鮮王朝(1392〜1910)に刊行され続ける。今日では、1894年に全羅道の官営で刊行された「整理字」と呼ばれる銅活字を用いて刊行された100余本が日韓ほぼ同数で計40余件が現存し、また中国にもこの版の現存が知られる。
 これ以前では、対馬の宗家文庫には1683年以前の木版本が蔵され、国立国会図書館にはこれより古い木版本が蔵される。
 1678年3月には清の使者が『桂苑筆耕集』を朝鮮から中国に持ち帰るが、『桂苑筆耕集』の日韓中の伝来からは崔致遠とその作品に寄せられた評価の如何が知られる。







『桂苑筆耕集』(韓国・啓明大学校本・1846 or 1906年)


『桂苑筆耕集』(対馬・宗家文庫本・1683年以前の版)


崔致遠への敬慕
 崔致遠は晩年に王建の高麗建国を予言したことがあった。このことが高麗政府の褒賞するところとなり、1023年には文昌侯と名を贈られ孔子廟に祀られ、子孫は政府の厚遇を受けることになった。

 朝鮮王朝に至ると崔致遠への敬慕はさらに高まり、1409年には「我東方文臣の聖教に功有る者」として文廟に祀られる。さらに全国の郷校では、孔子を祀る大成殿のなかで、孔子を中心に置く中国の儒者達の神位とともに、崔致遠は朝鮮の儒臣の筆頭として祀られていく。

 さらに、故郷の慶州では、1561年に地方長官の李禎が西岳書院を創建し、ここに崔致遠を奉祀することが始まり、また致遠に縁のある慶尚道や全羅道の郡においても、書院に肖像画と神位が配されて奉祀されるのである。


慶州・西岳書院

済州郷校内の崔致遠先生神位
研究課題:崔致遠撰『桂苑筆耕集』に関する総合的研究
研究組織:人文科学研究院・言語文化研究院
審査部門:人文科学  採択年度:H13-H14  種目:B-2  代表者:濱田 耕策(人文科学研究院 教授)