倭人伝の道
2-15 島原
はらやましせきぼ
原山支石墓
 長崎県南高来郡北有馬町、雲仙岳南西部の標高250mの台地に所在する縄文時代終末期の共同墓地。本来は3群により構成されていましたが、開墾による破壊で、現在ではそれぞれ6基と40基からなる2群が保存されています。森貞次郎(もりていじろう)が主任を務めた日本考古学協会西北九州総合調査特別委員会によって、1960年、61年、71年の3次にわたり調査がおこなわれました。本遺跡の支石墓は、碁盤(ごばん)形に分類され、韓国南部の支石墓と類似しています。また、籾の圧痕のついた甕棺(かめかん)や石包丁も見つかっており、墓地をいとなんだ人々と稲作農耕との関わりを想定させます。その一方で、遺体を埋葬する施設である箱式石棺(はこしきせっかん)は縦80cm、横50cm、高さ60cmほどという小ささで、遺体は縄文時代以来の屈葬(くっそう)の姿勢で葬られたものと考えられます。このように原山支石墓群は、縄文時代から弥生時代への転換期における朝鮮半島との交流や文化の変化を考える上で重要な遺跡なのです。
原山遺跡S35年調査時
九州大学考古学研究室所蔵

原山遺跡遺構配置図および支石墓
森貞次郎(1983)九州の古代文化. 六興出版

作成者:板倉有大(九州大学大学院比較社会文化学府)
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