古墳時代の北部九州の諸豪族
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 古墳時代(3世紀中ごろ〜6世紀代)になると、近畿地方を中心として、九州から東北地方南部にわたる日本列島の広い範囲で、前方後円墳を主体とした古墳が築かれるようになります。これは、各地域の首長層が共通の葬送儀礼を採用し、また相互の政治的同盟関係を強めていったことを示しています。そうした中、北部九州では古墳時代を通じて次第に独自の側面がつよくなっていきます。
 北部九州の古墳時代においては、以下のような特徴が挙げられます。まず4世紀の後半〜5世紀の初めごろに、古墳の埋葬施設として、それまでの竪穴系の埋葬施設とは埋葬方法が大きく異なる横穴式石室が朝鮮半島から導入され、各地へと広がっていきます。これは朝鮮半島にほど近い北部九州の地理的特色を示すものと考えることができます。また筑後川中流域では初期須恵器(すえき)の窯(かま)跡が確認されており、渡来系工人によって近畿地方とは別に須恵器が生産されていたことが明らかとなっています。また5世紀代には石人(せきじん)・石馬(せきば)などの石製表飾(せきせいひょうしょく)が発達しますが、6世紀になると各地で装飾古墳が築かれるようになります。こうした6〜7世紀代以降における古墳文化の動向は、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱(527年)とその後の北部九州における古代史の展開を考える上でも重要な手がかりとなっています。今回展示する資料は、古墳時代における北部九州と朝鮮半島、そして近畿地方のヤマト政権をはじめとした諸地域との交流のあり方を具体的に示すものと考えられます。
福岡市老司古墳3号石室開口部
(北から・報告書より)
石人実測図
(岩戸山古墳・石人石馬研究会)
作成者:辻田淳一郎(九州大学大学院人文科学研究院)
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