古代の北部九州
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 6世紀に朝鮮半島情勢が緊迫すると、ヤマト政権は博多湾の近くに那津官家という基地を設け、7世紀初頭に中国・隋との国交が始まると、「筑紫大宰」という行政官を派遣しました。663(天智2)年、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗すると、朝廷は国防の最前線となった北部九州に水城・大野城・基肄城を築くとともに、筑紫大宰とその組織を内陸の現在地に移し、国防と九州全体の政治的掌握の拠点としました。7世紀末に律令体制の整備とともに「筑紫大宰府」が成立し、8世紀初頭の大宝律令制定後は、「大宰府」として対外交渉・国防および西海道諸国島の総監を任務としました。行政都市としての大宰府は国都に次ぐ規模を持ち、北辺中央には政庁や役所を置き、市街地には碁盤目状に道路を通しました。後に福岡城が築かれる台地には「筑紫館」を設け、新羅使の応接、遣唐使や遣新羅使の宿泊に用いました。筑紫館は8世紀には新羅商人、「鴻臚館」と呼ばれるようになった9世紀からは唐・宋商人との交易の場となり、貿易の中心が博多に移る11世紀後半まで栄えました。

奈良時代の大宰府周辺の景観
(推定復元図。点線は阿部義平説による羅城。九州歴史 資料館『大宰府復元』(1998)より。)
平安時代の鴻臚館周辺の景観
(想像復元図。福岡市教育委員会『鴻臚館』より。)
作成者:岩永省三(九州大学総合研究博物館)
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