古代の北部九州
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大宰府・寺院・筑紫館
 大宰府政庁は8世紀前半に朝堂院(ちょうどういん)様式で礎石式・瓦葺の立派な建物となりました。941(天慶4)年に藤原純友(ふじわらすみとも)の乱で焼けて立て直され、11世紀に廃絶しました。現在も残る礎石はこの時のものです。政庁(せいちょう)の周囲にはさまざまな役所が建ち並び、三笠川の南側に条坊道路と宅地がしだいに整備されていきました。
 大宰府の内外には仏教寺院が多くありました。観世音寺は百済救援の際に筑紫で没した斉明天皇の追善のために天智天皇が発願、746(天平18)年に完成し西海道随一の寺として栄えました。現存する礎石や発掘調査成果から伽藍配置と規模が判明しています。ほかに、大宰帥蘇我日向が7世紀後半に造った「般若寺」とみられる塔原(とうのはる)廃寺、それが大宰府郭内に移転した可能性がある般若寺(はんにゃじ)跡、大宰府鎮護のために造られた竈門(かまど)神社の神宮寺である竈門山寺(かまどさんじ)跡、国分寺建立詔により造られた筑前国分寺、菅原道真が二年間暮らしたとされる榎寺(えのきでら)などがあります。
 筑紫館(鴻臚館)では、発掘調査によって3時期の遺構変遷が明らかとなっています。特に平安時代前期には大規模で礎石式・瓦葺の立派な施設となりました。大量の中国製陶磁器・朝鮮製陶器・イスラム系陶器・ペルシャ系ガラス器などが出土しています。


大宰府政庁と周辺の役所
(推定復元図。九州歴史資料館『大宰府復元』(1998)より。)


鴻臚館復元図
(想像復元図。福岡市教育委員会『鴻臚館』より。)

作成者:岩永省三(九州大学総合研究博物館)・山根謙二(九州大学大学院比較社会文化学府)
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